ながいながぽん

ツイッターにはかけない長さのやつ用

真面目に生きるということについて

自分でも良くないなと思うくらい真面目で困っている、というか悩んでいる。

真面目で良いことというのは世間で思われてるよりずっとずっと少ない。ただ人情要素を加味して考えたら真面目にやったほうが得をする場合があると言うだけで、それはただ打算的なだけ。それでも全然マシだと思うけど。

 

この前もつい道に百円玉が落ちてるのを見つけてしまった。転職の面接でかなり郊外に来ていたし、道も地図もわからないし、駅から30分ほど歩く工場から帰り道だから早く帰りたい、帰りたいのだけども。見つけてしまったものは仕方がない。駅まで行っても交番が見つからなかったので、更に十分ほど駅から離れた交番まで届けに行った。百円玉一枚で書類を書かせたり手間を取らせて警察官の方にも少し申し訳ないなと思うし、見つけたが自分の懐にしまいたくないという自分のわがままで届けている自覚もあったが、警官のみなさんもとても丁寧な対応だったのが救いだった。はっきり言って道に落ちてる百円玉を探しに交番に問い合わせる人なんていないだろうし、俺も拾得者権は当然放棄するし、警察官の手は煩わせるし、何も生み出さない行為だとはわかっているが……それでも落ちてる小銭を落ちてるままで放っておくことなんかできないし、ポケットに入れたまま持ち帰るなんてことはもっとできない。すべきではないし、やりたくない。しかしそのために無駄なエネルギーを他人に強いてしまっている……。どのみち良い気持ちにはなれない。でもそうしなくてはならない。真面目だから。

 

こんな具合でいつも正しさと真剣さと真面目さについて考えている。というか、実際には正しさとかはどうでもよくて、真面目であるかどうか、自分が自分自身を真面目であるか評価できることが最も重要なことだ。正しいことと善いことと真面目であることはすべて別物。だが他人の気持ちを考えず、ただ自分の納得のために無為にエネルギーを消費することは果たして真面目なことなのだろうか?

 

会社組織で働くためにはもう少し信念を曲げて他人に迎合して組織の実利を取らなければならなそう。自分が我慢して他人を幸せにすることは良いことなのかな。